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水木しげる/ロード/妖怪/記念館/画像/動画

水木しげるについて

水木しげる=妖怪」と言っていいほど、水木しげるの妖怪漫画は世間に愛されているでしょう。
水木しげる漫画だけでなく妖怪図鑑も出版しているほどです。

その功績は絶大で、地元の鳥取県には水木しげるロードや水木しげる記念館もあります。
さすが世界妖怪協会会長です。

水木しげるプロフィール

水木しげる(みずきしげる)、本名は武良茂(むらしげる)、1922年3月8日生まれ。
漫画家。世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員。

1922年現在の大阪市住吉区に武良亮一・琴江の次男として生まれた。
祖父の茂三郎から一字とって「茂」と命名される。
実家は鳥取県境港市入船町にあり、武良家は江戸時代、「武良惣平商店」という裕福な廻船問屋であったという。
父親の亮一は早稲田大学卒業後大阪で会社勤めをしていたが後に境港に帰郷し銀行員、保険会社の社員となる。
母親の琴江の実家は鳥取県米子市の旧家三島家の出身であった。
祖母のさいの父親は米子町(現・米子市)4代目町長をつとめた住田善平である。

恵まれた環境に育つが勉強はできるほうではなく、両親は小学校入学を一年遅らせる。
自身で認める超マイペース振りからまともに学校へ行かず、たいてい2時間目くらいの時間から登校。
高等小学校卒業後、大阪の石版印刷会社に勤めるも2ヶ月でクビになった。
絵の勉強をしようと思い立ち精華美術学校に入るが中退。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)の受験資格を得るため大阪府立園芸高校を受験するが失敗。
新聞販売店に住み込み工業学校の採鉱科を受け合格したが半年で退学になる。
新聞販売店を辞め中之島洋画研究所に通いデッサンを集中的に学ぶ。

やがて太平洋戦争中に召集令状が出され、激戦地だったニューブリテン島ラバウルへ出征する(当時21歳)。
乗船したのは信濃丸、日本海海戦で「敵艦見ユ」を打電した老朽船であった。
ラバウルへ向かう途中敵潜水艦に襲われたものの、間一髪魚雷を避け、上陸する。
この時体験したジャングルがその後の漫画に影響を与えた。
ところが、所属する部隊(ズンゲン支隊)が事実上壊滅し、本人はマラリアを発症してしまう。
さらに、その療養中に敵機の爆撃を受け左腕に重傷を負う。
そして軍医によって麻酔のない左腕切断手術を受けた。
九死に一生を得て終戦を迎え、駆逐艦雪風で日本本土へと復員。

その後、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学をするも、東北に復員兵救済募金の旅行などをしているうちに中退。
魚屋などの業種を経て、貸家経営をしつつ紙芝居作家として作品を描く。
ペンネームの「水木しげる」は、紙芝居時代に彼が営んでいた神戸市水木通に因んで、関係者が付けた通称による。
しかし貸本漫画が流行し紙芝居が廃れたことから、上京し貸本漫画家に転身。

長い貸本作家としての活動を経て、1964年、雑誌『ガロ』創刊号で漫画家として雑誌デビューし、1965年には『テレビくん』で講談社児童漫画賞を受賞。
『悪魔くん(シリーズ毎に、主人公やストーリー自体が違う。)』や『ゲゲゲの鬼太郎{原題:墓場(の)鬼太郎}』、『河童の三平』など主に妖怪に関する漫画を発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
2005年にはリメイク映画妖怪大戦争に自ら、妖怪の長役として登場したり、久しぶりに『妖怪大戦争』(荒俣宏氏原作)という新作妖怪漫画を描いた(最近では『怪』連載の『神秘家列伝』など妖怪が直接登場する漫画作品は少なかった)。

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